勇気の壁を乗り越えた先に~僕の履歴書3

「よく行ったねぇ」

19歳だった頃の自分を褒めるかのように、ゆっくりと抑揚の付けた口調で今井は語り始めた。

 

今回は、今井伴也がアメリカへ留学していた時代を振り返る。

「高校卒業後の2000年から2002年、アメリカのLAへ留学しました。6月に渡米して最初の一週間はホテルで一人、泣きましたね。バスの乗り方がわからない、電話のかけ方もわからない、まして今のようにインターネットが普及する前ですから、全てがわからないというくらいの状況でした。

住む所を探すのになにより苦労した記憶があります。アメリカでは、お金持ち向けの不動産屋はあっても、日本のような誰もが気軽に利用できる不動産屋はないんです。空き物件には『For Rent(訳:空き室あり)』という看板が出ていて、そこに記載されている物件のオーナーに直接連絡をする、というシステムです。ただ、自分で探そうにも街が広くて歩いて探せる広さじゃない。物件を探すのにとても疲れました。

そういった中で印象深かったのは、ご飯の不味さ。ホテルの前にハンバーガーショップがあったのですが、そこのハンバーガーが不味くって。ポテトくらいなら食べられるかなと思ったら、ポテトも美味しくない。マクドナルドを見つけた時は、本当に『助かった』と思いましたよ」

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渡米初日、ホテルに着くまでは「『よっしゃ、来たったで』ってほどノリノリだった」という心はかくして折られた。

今井の目に映った、アメリカの第一印象は非常に厳しいものになった。

 

 

今井が留学を決意したいきさつについても少しご紹介しておこう。

映画三昧だった高校時代の2年生時に留学を決めました。映画の勉強がしたくて。日本でも映画の勉強ができる大学はありましたが、やはり映画の本場はアメリカだと、LAなら映画学校がたくさんあるという情報を書籍から得ていたので、LAへ行って勉強しようと決断しました。

留学するにあたっては入学先だけ決めて、あとはノープランでアメリカに渡りました。ほとんど何も決めずに行ったからこそ、先ほどお話したような苦労が待ち受けていたのですけれどもね。

イメージではもう少し学校が面倒を見てくれるのかと考えていましたが、そんなことはなかったです。渡米してすぐに学校へ手続きに行って、そこで私の身の回りのことについて何か話があるのかと思いきや、何もなかったですから」

 

渡米後、一か月間の孤独に耐え、7月から2か月間の語学クラスが始まると少しずつ状況が変わってきた。

「私と同じようにLA在住の日本人留学生が集う掲示板で物々交換が行われていたり、テレビなどが安く入手できたりと、徐々に情報が回ってくるようになりました。

本格的に映画を学び始めた秋セメスターは9月から。映像制作全般と、映画の歴史を学ぶ『フィルムヒストリー』の授業を履修しましたね。あと、学位を取得するために一般教養を学ぶ必要があり、心理学を受講しました。

授業は楽しかったと記憶しています。以前も話したけれど、最初の内は先生の言っている英語がわかりませんでした。そんな中で、教科書をあらかじめ読んでおくと、その箇所を先生が授業で触れた際、『あ、ここ読み込んだところだ』と。つまり予習がかなり効いたということ。2、3か月でだいぶわかるようになってきました」

 

英語を一旦習得すると、成績がグングンと伸びた。

「成績でAが取れるまでになりました。ただ、そこで『思い描いていたようなものではないぞ』と気が付いたんです。というのも、私の通ったLos Angeles City CollegeはLAで最も学費が安かった。LAにはジョージ・ルーカスが設立した映画学校とか、スティーブン・スピルバーグが卒業した映画学校もあり、そういった学校は勉強内容が充実していて。私の学校で習った知識は、高校時代に本を読んで知っていたことばかりでした。そういった理由で2セメスター目には映画の授業を取るのをやめました。『だったら学校以外で活動したほうが自分のためになる』と思ったのが理由です」

 

進むべき方向性が定まり、今井は学外活動に注力していく。

「学費の高い他の学校は講師陣も、保有している機材も段違いです。具体的に言うとフィルム。私のいた学校で『実習』と言えば、8mフィルムを使っていましたが、学費の高い学校で行われている映画製作は35mフィルムを使うこともよくありました。

8mフィルムと35 mフィルムでは、単純にフィルムの値段だけでも約8倍違います。なので、そういった他の学校の制作を手伝うようになりました。『実習』とはいえ映画製作には変わりはないです。学生映画であってもクオリティが高い。それこそ映画業界にいる現役のプロが、講師としてではなく、スタッフとして現場に来ているほどです。そういった人たちと仲良くなってしまえば、独立プロダクションからも声がかかるようになってきて。

また、学生映画というのは持ちつ持たれつがあります。つまり『この作品ではあなたが監督だけど、私は私で監督をしている作品がある。あなたを手伝うから、私の作品も手伝ってほしい』というような。そんな環境の中で『私の作品にもぜひトモヤに来て欲しい』と、たくさんオファーがかかるようになりましたね。

大切なのは一歩を踏み出し、『勇気の壁』を乗り越えることだと思います。日本からアメリカへ渡ったこともそうですし、留学先の学校ではなく他の学校の作品に関わるようになったのも、『勇気の壁』を超えたからです」

 

数々の作品に携わった中、最も思い出深い作品は何か、と質問を向けると、今井は二つ挙げてくれた。

「一つ目は、2001年に関わった『マイクログラビティ』。ハリウッド映画『ゼロ・グラビティ』と同じコンセプトですが、こちらは2013年制作です。つまり私たちのほうがだいぶ早かったわけです。

『マイクログラビティ』は、SF映画祭で『ダグラス・トランブル賞』を受賞。同映画祭では『2001年宇宙の旅』で特殊効果を務めたダグラス・トランブルが選考委員にいました。彼が、私たちの作品が素晴らしいということで、本来はなかった『ダグラス・トランブル賞』という賞を作ってまで評価してくれたのが嬉しかったですね。私たちもまさに『2001年宇宙の旅』を目標として制作した作品だけに、喜びもひとしおでした」

 

「もう一つは2002年制作のタイ映画『Bicycle And Radios』です。これは当時アメリカに留学していたタイ人が監督を務めた作品で、カンヌ国際映画祭で招待上映されました。1か月間タイへ撮影に行ったのですが、制作するにあたって準備のプロセスとして授業の中で他の学生にプレゼンする必要があった。私の所属している学校ではなかったのに、無料で他の学校の授業が受けられました」

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今井の話を聞く中でふと、疑問が湧いた。

「昔と今、技術の進歩があった中で、今と比べて昔の良かった点はあるのだろうか」と。

その疑問に対する答えをご紹介して、今回の記事を締めくくろう。

「例えば8mフィルムで映像を撮ると、白黒です。画質が悪くグレーが出せません。そういう環境で、照明の当て方によって『明るい所はここで、暗い所はここで』という風に凄く考えました。

また、デジタルではなくアナログなので、今のように撮ってすぐに確認という作業ができないため、『こんな風に映っているんだろうな』と想像しながら撮りました。どんなに小道具を置いても伝えられる要素が少なかったから、『これだけは伝えないと』というポイントに集中していました。

今は人間の目よりもカメラの性能の方が良いくらいなので、なんでもかんでも詰め込みがちになりますが、本来は伝えなくてもいい情報を減らすようにしなくちゃならない。技術的に限らていたからこそ情報を整理する必要があった、という点が昔のよかったところですね」

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